「寧々ちゃん。」
「あ、美衣ちゃん?」
初夏の日差しがさし込む教室。時計は、午後三時四十五分を差している。一日の授業が終わり、そろそろ生徒たちが帰途につく時間だ。
「どうしたの、美衣ちゃん?」
「う、うん…あのね…話があるんだけど……。」
美衣と呼ばれたその少女は、丸顔の頬の部分を少し紅潮させて、モジモジとしている。
「いいよ。何?」
「こ、ここじゃダメ。恥かしい……。学級委員のお仕事終わったら体育館の裏に来て。」
そう言うと、美衣はそそくさと教室を出て行ってしまった。
「何だろ…?」
「寧々ちゃん。」
どことなくノンビリとした声で寧々に話し掛けてきたのは、眠そうな目をした、ちょっと…というよりも、明らかに太めの少年であった。
「あ、太一クン。」
太一と呼ばれたその少年は、教室を出て行く美衣の方を、いぶかしげに見やった。
「美衣ちゃん、何だって?」
「何か話があるって……。」
「何の?」
「うーん、わかんない。とりあえず、後で体育館の裏で会うことになってるんだけど……。早く日誌を先生のところに持っていかないと。」
「じゃぁ、ボクが持っていくよ。」
「あ、いいよ。今日は私の当番だから。」
「いいよ。美衣ちゃんの話、聞いてあげなよ。」
そう言うと、太一は相変わらずノンビリとした動きで寧々の机の上の学級日誌を手にとった。一見何も考えてなさそうな風貌の太一だが、こういう時には妙に気の利いたところがあり、それが、寧々にとっては心強い部分でもあった。
「う〜ん…、じゃあ太一クンお願い。」
「まかせて。」
寧々は、そのまま鞄を手に取り、教室を後にした。太一は、そんな寧々を見送った後、ゆっくりとした動きで職員室へと向かっていった。
寧々は、早足で体育館の裏に向かった。そこでは、すでに美衣が、相変わらずモジモジしながらたたずんでいた。
「美衣ちゃん。」
「あ、寧々ちゃん。早かったね…。」
「うん。太一クンが代わってくれるって。」
「そ、そうなんだ……。」
そう言うと、何故か美衣は、両の手を頬に当てながら、顔を下に向けてしまった。心なしか、さっきよりも頬が紅潮している感じも受ける。
「話って、何?」
「う、うん…あのね…あのね……。」
真っ赤になった頬を隠すかのようにうつむいたまま、美衣は言葉を濁した。そんな美衣の態度に、寧々はハタと思い当たった。
(これって……。)
「ね、ねぇ美衣ちゃん。ひょっとして……恋力……?」
「!!??」
美衣の顔が、一瞬にして真っ赤になった。パッチリと見開いた真ん丸な瞳は、今の寧々の言葉が図星であるということを、何よりも雄弁に物語っていた。
「あ、やっぱり…。」
「あ、あの…あの……。」
「で、誰に?」
こうなると、寧々の興味は、次なる段階へと移っていった。
「え、えーと……。」
「ウンウン。」
寧々の瞳は、好奇心に輝いていた。
「あのね……。」
「ウン……。」
「…しクン……。」
「え?」
「つ、つ…クン……。」
「はっきり言わないと聞き取れないよ。」
「だ、だから………剛クン…………。」
「……ええぇ!?」
剛とは、寧々の双子の兄妹である。寧々の驚きも、無理からぬことであった。
「そう…なんだ…。剛クンを……。」
美衣は、無言のまま頭をコクコクと頷かせている。
「そ、そう言えば、保育園の時とか、ずっと剛クン追っかけてたよね。」
そう。寧々と剛、そして美衣は、保育園の頃からの知り合い同志であった。ついでに、教室で寧々と話していた太一も、同じである。
「亜衣ちゃんや麻衣ちゃんと『あいまいみい』トリオ組んで、剛クンに『ちゅーしょっと!』とか迫って。」
「う、うん…。」
「ひょっとして、その頃から?」
「う、ううん。あの頃は全然。ただ、亜衣ちゃんや麻衣ちゃんと一緒になって剛クン追っかけてるのが楽しかっただけ……。」
「……。」
「で、でも…いつからだろ……。ホ、ホラ、私ってどんくさいし…。『ちゅーしょっと』しそびれちゃったりしすることも、結構あって……。」
「あ、そう言われてみたらそうかも……。」
「で、でね…亜衣ちゃんとか麻衣ちゃんとかが剛クンと『ちゅーしょっと』に成功してるの見てて……私だけできなくて……。すごく悔しくなって……。だから余計に、成功したときは嬉しくて……。いつの間にか、剛クンばっかり見るようになっちゃって……。」
「気付いたときにはもう?」
「う、うん……。」
そう。十年前の美衣は、確かに積極的な“追っかけ少女”だったのだ。だが、亜衣が去り、麻衣が去り、今、寧々の目の前に居る美衣という少女は、内気で、恥ずかしがりやな内向的少女になってしまっていた。
(時の流れって、わかんないもんだなぁ。)
十年の時の流れは、寧々に、そんな妙に大人びた感慨をも抱かせるに十分なものであった。
「でも、何で私に?そういうのはやっぱり、剛クンに直接言った方がいいと思うけど……。」
「だ、だって……。私、男の子のコト、よく分かんないし……。ほら、寧々ちゃんはいつも剛クンと一緒に居るし…。太一クンとも付き合ってるし……。」
「え!?あ、あのそれは……。」
今度は、寧々の方が顔を赤くする番だった。
「男の子のコトは、私なんかよりもずっと知ってるだろうから……。」
「あ、で、でもホラ…。剛クンと太一クンって、全然違う人だし……。」
しどろもどろで取り繕った寧々の言葉は、もはや答えにすらもなっていなかった。そんな寧々の動揺に気づくことも無く、美衣は話を続けた。
「それに、ホラ…。私ってどんくさいし…、背低いし…、太ってるし…。」
「そ、そんなの、関係ないと思うけど……。」
確かに、美衣の言っていることも当たっている。お世辞にも体育が得意とは言えなかったし(むしろ、体育はあからさまにニガテであった)、背も、前から数えて2番目くらいであった。だが“太ってる”というのは、一面では当たってるかもしれないが、むしろ、その“背の低さ”も相まって、どちらかというと「小っちゃくて、コロコロしてる」とも見てとれる部分があり、寧々にしてみたら、むしろそんな「コロコロ感」が可愛らしくて、羨ましいとさえも思えるくらいであった。
「それに、剛クンは、やっぱり私のコト、嫌がってるだろうから……。」
「え?何で?」
「だ、だって……、あれだけ追っかけ回して……、その……、キ、キスを迫ったりして……、あんなに剛クン、嫌がってたのに……。」
確かにその頃の剛は、美衣たちの追っかけをあからさまに嫌がっていた。あまりの嫌がりぶりに、寧々が助け舟を出したのも、一度や二度ではない。
「美衣ちゃん…。」
「きっと、剛クン、許してくれてないだろうから……。」
「そ、そんなコト…、本人に聞いてみなきゃわかんないじゃない……。」
「だ、だから……。聞いて欲しいの……。剛クンに……。」
「え?私が?」
美衣は、無言のまま頷いた。寧々は、ちょっと困惑した表情で、瞳を宙に泳がせてしまった。
(うーん……。困っちゃったなぁ……。)
帰り道の道すがら、寧々はずっと思案に暮れていた。
「寧々ちゃん。どうしたの?」
隣で一緒に歩いていた太一は、そんな寧々の顔を覗き込んで言った。
「え?あ、ううん。何でもないの。」
「そう……。」
そう言うと、太一はそれ以上のことは聞こうとはしなかった。こういう時、余計な詮索をしない太一の態度が、寧々にとってはむしろ有り難かった。無言のまま歩きつづける二人。やがて、寧々のほうから口を開きだした。
「ねぇ、太一クン。もう十年になるよね。長いか短いかわかんないけど……。」
寧々は、太一の方をチラリと見やったが、何故かそこには、太一の姿はなかった。
「あ、あれ?」
立ち止まって後ろを振り返ると、いつの間にやら太一は、コンビニの前で立ち止まって店を眺めていた。
「太一クン。」
寧々は、すぐに太一のもとに駆けつけた。太一は、店のドアに張ってあるポスターを見ていた。
「えーと、何々…?直巻きおむすび新商品……?」
寧々は、思いっきりあきれ返った表情で太一の顔を覗き込んだ。
「食べたいの……?」
「うん……。」
そう言うと、太一はそのまま店の中にスタスタと入ってしまって行った。
「もう、しょうがないんだから……。」
プゥと膨れた寧々の表情が、しかし次の瞬間には微笑に変わっていった。
「待って太一クン。私も。」
そう言うと、寧々も太一の後を追って店の中に入っていった。